機会平等 

能力主義による機会平等

能力の差異によって、平等をはかることで差別はないと

感じられるが性別や家柄の差異によって平等をはかれば、

それは差別であると私たちは感じる。

それが、普遍的な差別であると感じるということであるが

 

ADLの自立が前提となる社会 自己責任論?

障害者の差別は、また別である。

社会の主流、その規範においてADL(日常生活動作)も

能力の一部であると考えられる。

である以上、障害者にとって、そもそも、能力主義への平等の機会は

開かれていないと考えられる。

現在の社会には、このような事実上の差別が多くある。

 

実際に会社で業務を行うために直接必要となる能力はもっていても

周囲の環境が合わないために、参加が阻まれるなど。

 

機会平等を推進するためには

ADLの自立を社会参加の要件にしたり、その要件を

障害者の責任とする考え方が変わらない限り、事実上の差別はなくならない。

 

障害は周囲の環境との相互作用によって、生じる。(障害とは何か?)

バリアフリーによって車椅子が使える環境であれば、障害はなくなる。

ただし、現状では健常者が使いやすいような環境が整備されているので

障害者は不便な生活を強いられてしまう。

 

アメリカでは、このような現状を

法律によって変える動きがあった。「障害を持つアメリカ人法(ADA)」

「職務にともなう本質的な機能を遂行できる障害者を障害者ゆえに

差別してはならない」と明文化。

障害者が働けるようにバリアフリーにすること、

視覚や聴覚、手足が不自由な場合は、

それを補う補助具やアシスタントを雇用主が準備することが義務づけられた。

 

また日本でも2013年6月に成立、2016年4月施工の

障害者差別解消法によって「障害者の差別禁止」「合理的配慮の提供」が明記。

 

能力主義能力主義による機会平等の限界

障害者差別解消法や改正障害者雇用促進法によって

障害者の社会参加、機会平等は開かれているものの

現状では、障害者は教育や社会参加の機会が極端に少ないため

潜在的な力を発見し伸ばすことができないという問題が残る。

 

もう一つ、現在の企業や官公庁の組織が当然と考えている

「能力」の基準から見ると、求める職務が遂行できない障害者がたくさんいる。

 

これは、本当に能力がないのだろうか?

健常者の価値観でのみ、能力をはかっているだけかもしれない。

 

障害者スタッフがいることによって、その組織がもっと働きやすい場所になる。

または、より価値のある新製品やサービスを生み出す可能性が考えられる。

 

日本は少子高齢社会が進み、労働人口、総人口が現象する社会となった。

今では、デジタル技術の発達により、在宅でのリモートワークが普及したり

文書の読み上げ機能や音声認識技術が向上したことにより

障害による移動やコミュニケーション上の困難が軽減・解消される時代に

なってきている。

より多くの人の力を活かせる社会への転換が求められる時代となった。

 

この際にあらためて今までの健常者中心の価値観を問い直し

障害者、健常者を含む全ての人たちが社会参加できる社会のあり方と

その方法について考えを進める時期にきている。